都市部で自動車を保有することは必要なのでしょうか?

自動車が日常の移動手段として不可欠な地方や郊外であればともかく、高齢化が進む社会であればなおさら、自動車を保有すること自体の意味は大きく異なります。

高齢者ドライバーの免許返納についても様々な議論があるようですが、本ブログでは、まず「親や祖父母に免許を返納してもらうにはどうしたらよいか?」日本や米国の事例をいろいろと調べてみました。さらにその先の話として「返納後の車庫スペースをどうするか?」という観点から返納後の生活のイメージを膨らませられないだろうか、そしてそれが返納への動機づけにならないだろうか?さらに近年「私的な空間を社会に対して開いていく」事例が取り上げられる中で「住み開き」ならず「車庫開き」が少しずつ社会に浸透していくかもしれないと、あれこれ考えてみました。

  1. 都市部での自動車離れ
  2. 親や祖父母に免許を返納してもらうにはどのようにしたらよいか?
  3. 自動車がなくなった車庫をどのように使うか?
  4. まとめ

都市部での自動車離れ

自動車離れは着実に進んでいるようです。三大都市圏では自動車から鉄道へシフトしているという資料がありました。

三大都市圏・地方都市圏別の代表交通手段利用率(平日)(国土交通省ウェブサイトより)

鉄道の利便性の向上等を背景として鉄道の利用が進んでいるようです。三大都市圏では平成17年(2005年)をピークに交通手段としての自動車が減少し、鉄道の分担率が上昇しています。それでは、東京都の区部ではどうなっているのでしょうか。

東京都の統計のページを参照し筆者作成)
東京都の統計のページを参照し筆者作成)

東京都区部の自動車保有台数と人口の推移をグラフにしてみました。人口が増加しているのにもかかわらず、乗用車の保有台数が減少しているということがはっきりわかります。

若者の場合
車離れですが、中でも20歳~39歳での自動車離れは顕著なようです。

年齢階級別運転免許保有率の推移東京都(国土交通省ウェブサイトより)
若者の自動車保有率の変化(1998年→2008年)(国土交通省ウェブサイトより)

この地図からも分かる通り、郊外では増加しているものの、都心部では明らかに車離れが進んでいます。またこの調査では、車を保有しない理由についても調査していますが、

公共交通機関で十分だから
自転車、バイク、徒歩などで十分だから
購入価格が高いから
ガソリンや税金等の維持費が高いから
駐車場代などの費用が高いから

といった回答が寄せられていました。そもそも交通網が整備されていれば、日常的な移動目的としての車を保有する必要性はありませんし、経済的な理由によりあえて自動車を持たない選択をすることも良く分かりますね。

同時に最近では、カーシェアェアも一般的に浸透してきたようです。移動することだけが目的で、シェアする自動車が近隣にあれば、わざわざ自動車を自家用車として保有する必要がなくなります。

わが国のカーシェアリング車両台数と会員数の推移 (公益財団法人交通エコロジー・モビリティ財団ウェブサイトより)

近所で手軽に車を借りることができるならば、わざわざ保有しなくても良いと思う人も多いのではないでしょうか?車を保有して維持するには費用も手間もかかります。点検や車検も面倒ですよね。

高齢者の場合

一方、都市部で自動車を保有する高齢者の場合はどうでしょうか?先ほどのグラフからも高齢人口の増加とともに、運転免許証の保有率も増加しているようです。このような中、東池袋自動車暴走死傷事故がおきました。

東池袋自動車暴走死傷事故 死亡した母子のために設けられた献花台。2019年4月28日撮影。(Wikipediaより)

2019年(平成31年)4月19日12時25分頃、東京都豊島区東池袋の東京メトロ東池袋駅付近の交差点において通商産業省(現経済産業省)の元職員の男(当時87歳)が運転していた乗用車(二代目トヨタ・プリウス)が暴走して多重衝突事故を惹起。乗用車は赤信号を無視して交差点内の横断歩道に突っ込むなどして2人(母子)が死亡し、乗用車を運転していた男性を含む10人が負傷した。(Wikipediaより)

この東池袋自動車暴走死傷事故現場ですが、どうしても他人事とは思えません。そもそもこのブログを書こうと思ったきっかけも、現場を通りがかるたびに、いつも老人と自動車について考えさせられていたからです。

この事故以前からも、都内のみならず日本全国で発生した高齢ドライバーによる死傷事故は、ニュースで多く取り上げられてきました。高齢者の母数が増えているために、高齢者による事故が増えているのだという見方もあるでしょうが、実際は、もともと一定数は存在していた高齢ドライバーによる事故が、社会問題として顕在化し、より視聴者の興味を引くことがわかり、取り上げられるようになったからではないでしょうか。

運転免許の自主返納をサポート(警視庁のウェブサイトより)

本事故の発生以後、運転免許証の自主返納をする高齢者が増えていることが報じられており、FNNによれば事故発生翌週に運転免許証を自主返納した人は都内だけでも1200人にのぼったほか、同年の大型連休明けの3日間でも都内で1200人以上が自主返納をしているという。その後、読売新聞社が警視庁へ取材したところ、事件から半年間で運転免許証を自主返納した人は約3万7千人にのぼり、前年の同期間の約8割増となっている。
Wikipediaより)

自動車運転免許証の返納と一言で言っても、なかなか難しいという声をよく聞きます。なぜでしょうか。

運転に見出す意味は人それぞれ

国立長寿医療研究センター長寿政策科学研究部の調査によると、

自動車を運転することに”移動手段以外”の意味を見出している割合は約3割

なのだそうです。具体的には「自分のこだわり」「自分の自立を示すもの」「自分の誇り」「自分の生きがい」「自分の趣味」「自分の気分転換」「自分の楽しみ」「自分らしさを示すもの」「自分一人になれる機会」と、すべて「自分」がついています。それほど自分自身のと密接につながっている運転をあきらめるのが難しいことは、想像に難くありません。そして表をみるとわかるように、高齢者になるほどそう考える人が多いのです。移動手段プラスアルファ、の意味を持つ運転。どうやったら手放せるのでしょうか・・・。

「認知症高齢者の自動車運転を考える家族介護者のための支援マニュアル©」より 国立長寿医療研究センター 長寿政策科学研究部 http://www.ncgg.go.jp/cgss/department/dgp/

親や祖父母に”運転を引退”(免許を返納)してもらうには

免許制度などの法整備や自治体による代替交通の整備などが今後進むと期待しますが、まずは自分たちでできることを、ちょっと調べてみました。

その1)理論的に説得する~データを示す~

老化に伴い様々な機能が低下します。

縦断研究による知能の加齢変化(「公益財団法人長寿科学振興財団 健康長寿ネット」ウェブサイトより引用)

このグラフより空間認知や知覚速度に関する機能が、60代後半から徐々に低下し、80代では急速に低下することが分かります。ある研究によれば、加齢によって衰える機能で、運転に関係しているものとしてあげられるものには視力、聴力、反射神経、記憶が挙げられています。警察庁の平成29年度交通死亡事故の特徴によれば、全交通死亡事故に占める高齢者(65歳以上)の割合は54.7%にのぼります。75歳以上というくくりでみてみると、30.1%が「操作不適」、ハンドル操作やアクセル/ブレーキの踏み間違いによるものなのです。

平成29年度における交通死亡事故について(警察庁交通局)より引用

日本のJAFに相当する米国AAAの調査では、

①75歳以上の高齢者の交通事故率が著しく上昇する。

②高齢者の80%にみられる関節痛や手脚の炎症などは、手足を動かしたり伸ばしたり縮めたりするなどの動きに痛みを伴う可能性があり、弱まった筋力や柔軟性の低下、可動域の減少はハンドルを握る力や、ブレーキ・アクセルを踏み込む力、ドアや窓の開閉のための動きなどが制限される。

③基礎疾患を含めた服薬をしている率も高い(75%ともいわれる)が、全体の1/3しかその服薬がもたらす自動車をはじめとする機械操作への影響を理解していない。

④運転距離に対しての死亡事故率は75歳から上昇し、80歳以降は劇的に増加する。これは物理的にぶつかる率が増えるというよりは、おもに受傷するリスクに加えて、基礎疾患等との複合的な影響によるものと考えられる。

⑤高齢運転者はより身体的に弱まっている(フラジャイル)ため、致死率は25-64歳に比べて17倍高い。

国土の広さというおおきな違いがあるため、交通事情の差はありながらも、高齢者の運転のもつ危険性について、日米でそれほど違いがあるとは思われない状況が浮かび上がってきます。特筆すべきことの中には、運転が認知機能だけではなく体の柔軟性や可動域といった物理的・身体的な制限を受けるものだということです。脚や腰が痛いといって薬を飲んでいるのに、運転には支障はない、という言い分には無理があるということにもなります。

ではそのような不安を抱えた祖父母や親、親族に対してどのようなアプローチをとるのが適切なのでしょうか。先ほどの「運転することの意味」が一人ひとり違うように、正解は決して一つではありません。世の中にはどんな知恵や方法があるのでしょう。引き続きみていきます。

NIH(米国国立衛生研究所)National Institute on Agingではこのようなインフォグラフィックスがありました。OBSERVE/LOOK/TALKと、シンプルかつストレートな内容です。

OBSERVE ・・・本人の運転技能を観察する(同乗して確認する)
LOOK・・・運転をやめる必要があるような兆候(事故、交通違反、苦情や文句、夜間運転への不安など)
TALK・・・運転について本人と話してみる。対立的になるのではなく、支持的に、そして前向きに。運転の技能に焦点をあてて、本人の年齢のせいにしない。免許を返上した後の移動手段について、行政や民間のサービス利用を模索する。

しかしながら、こうした理詰めの説得を、簡単に受け入れてくれるのであれば、何の苦労もしません。自分の老いや能力の衰えに直面化し、認めることは、並大抵のことではないでしょう。

「北風と太陽」の寓話に描かれているように、いくら強い北風を吹かせても、かえって意固地にさせてしまうだけかもしれません。現役時代には数値目標を掲げて、データでクライアントを説得することに長けていた父たちも、いざ自分ごととなると、身構えてしまうのでしょうし「オレは例外だ」という気概もやっかいです。

ちなみに、このようなサービスがあることは知っていますか?オリックス エバードライブというあんしん運転見守りサービスです。

Ever Driveは、車両に取り付ける専用デバイスでドライバーの運転状況をリアルタイムに検知。
日々運転していると気づきにくい危険な運転挙動、車両の現在位置や走行ルートを可視化します。

利用者の声を読むと、免許返納の話し合いの中で、「安全な運転ができているかを確認する」手段として導入されている方もいらっしゃいました。遠隔地に住む家族でも、確認することができますし、運転を続ける条件としてこれをつけて、危ないことがわかったら返納する、と約束してもらうなど、使い方によって運転を引退するまでのソフトランディングが可能になるようなサービスのようです。取り付けられる車種に制限があるそうですが、対象車であれば、検討してみる余地はありそうです。

その2)孫が頼む
北風作戦の次は、太陽作戦です。とかく冷静かつ批評的になりがちな子供からの指摘よりも、可愛い孫からの「おねがい」であれば、多少効果はあるかもしれません。親や祖父母が交通事故を起こすことによって、被害者の方に危害を加えてしまうのは当然として、その親族に対してどれほどの負担を強いるか・・・ある意味情に訴える方法といえるでしょうか。ロケットニュースの【実話】スーパー鬼ガンコ者の父に「運転免許証の返納」を決意させた言葉 では、その作戦で成功されたケースを読むことができます。また、米国の記事 運転について老いた両親とどのように話し合えばよいか/How to talk to an elderly parent about driving でも「孫作戦」は有効なようで「孫の送り迎えをして大丈夫だといえる?」などと愛情や思いやりの気持ちと、少しの不安に訴える、という記事もありました。北風か太陽か、はたまた両方か。時間を変えて場所を変えて、人を変えて長期戦でいく必要があるのかもしれません。

また,75歳以上の運転者による死亡事故について,件数自体は10年間ほぼ横ばいで推移しているものの,死亡事故件数全体が減少する中,全体に対する構成比は上昇傾向にあり,平成28年は全体の13.5%を占めている。(「高齢者に係る交通事故防止」高齢者を取りまく現状内閣府ホームページより)

自賠責保険や自動車保険に加入していることは前提だったとしても、後処理を行わなければならない親族の肉体的精神的負担は、はかり知れません。そのような重責を、本来面倒をみる立場であった自分(高齢者)が子供や孫に強いて良いのだろうか・・・との思いで納得される方もいらっしゃるでしょう。

その3)同世代から伝える

自らいくつかリサーチした中で、一番しっくりくるのは、子や孫ではなく近い世代からの勧めなのではないかと思います。子や孫は自分より弱者で保護の対象であったはずで、そのような「下」の人間が、自分の自由を奪うような決定権を与えるわけにはいきません。年配の医者や同世代の友人からの進言には、耳を傾けるかもしれません。現代ビジネス 81歳・運転大好きな認知症の父に運転を諦めさせるまでの「修羅場」とても読みごたえがあり、お勧めです。

様々なサイトを訪れて、ある一定の共通項がありました。それは

  • 年齢や加齢のせいにせず、運転技能のみに焦点をあてる。
  • 大勢で取り囲んで介入するようなことはせずに、適切な人を選んで1対1で静かに話す。
  • 本人の申告だけをあてにするのではなく、実際に同乗してみて感じたことを記録しておく(国立長寿医療研究センターが出している運転行動のチェックリストはこちら)。
  • 「免許を取り上げる」のではなく「運転を引退する」という表現を使う。取り上げるのは家族で、引退するのは高齢者本人という、主語の違いでもわかるように、あくまでも本人の意思で行うことである、という前提を大切にする。本人の意思を尊重しつつ、ある方向に促す、というのは至難の業ではありますが・・・。

では引退(返納)後の自動車がなくなった車庫はどうするの?

前述のように、自動車を単なる移動手段としてではなく、自分をあらわす趣味嗜好品ととらえる人々がいます。しかしながら一般的傾向として、若者には車離れが浸透し、老人には免許返上が浸透する(と願いたい)とした場合、いずれにしても都市圏では、自家用車は減少の一途をたどることになります。

都市部の住宅では、自宅の敷地内の空地を駐車スペースとして設けることができる場合は少ないのではないでしょうか。そもそも自動車を所有せず車庫自体がない場合も多く、また車庫を確保できたとしても、1階の大きな場所を占有することになります。この1階の車庫に自動車が無かったら、その空きスペースをどのように使えるのでしょうか。

車庫を居室化した事例

実は、車庫に目を向けたきっかけは、とあるリノベーション物件でした。以前は、このようにシャッターの降りた車庫でした。

しかし、数年前に改修工事が行われました。

おそらく建物の所有者が変わったのでしょう。シャッターは取り外され、内装工事とともに外部建具が設置されました。陶器質タイルの外側からコンクリート打放し風パネルが取り付けられました。このように車庫が、あっという間に居室化されるのを目の当たりにして、いろいろと考えさせられました。

このような車庫の居室化に、都市にすむ人の一つのニーズを見出しました。法適合性についてはあえて触れませんが。。。

「車庫」と「居間+前庭」の違いを示す事例

他にも「車庫」にした場合と「居間+前庭」にした場合の違いを分かりやすく示している事例もありました。
向かって左と右の住宅は、同じ時期に開発・販売されたのでしょう。タイルや吹付などの外装仕上げが同じです。左側の住宅は、開発時に車庫を希望し、右側の住宅は居室を希望されたのでしょう。右側の住宅には植栽が施され、単に車庫とするよりも親しみが持てます。

物置へ
自動車の無くなった車庫は、おそらく物置として使われる場合が最も多いでしょう。屋内の車庫であれば、自動車があっても、段ボールの山があっても、外から見て違いはありません。しかし、公道から見える開放性の高い車庫の場合、段ボールが山積みだったらどうでしょうか?見た目も殺風景ですし、放火される危険もあるかもしれません。車庫を物置として使うのは機能的ではありますが、街並みを良くしてエリア全体の住環境を向上させる視点からは、ちょっと寂しい気もします。

居室へ
先ほどの事例のように、構造的、法規的に許すのであれば、居室にすることも可能でしょう。趣味部屋としても良いかもしれません。ただし、雨仕舞や断熱、電気設備経路や屋内からの動線計画なども検討する必要があり、コストもかかるので、予想以上にハードルが高いかもしれません。

「住み開き」から「車庫開き」へ

住み開き(すみびらき)とは、住居や個人事務所といったプライベートな空間を、本来の用途や機能を保ちながら、一部を限定的に開放することによって、セミパブリック化させる活動や運動、そのような使われ方をする拠点のこと。自宅で子どもが独立してできた空き部屋や、事務所の空間、改築によってできたスペースをカフェやギャラリーなどとして、近隣の人たちにスペースを開放する。アイデアで色々な用途に使用でき、新しいコミュニケーションの場として広がりをみせている。(Wikipediaより)

ご近所づきあいが希薄な都心でも、コミュニケーションの場を作りたい人や参加したい人は、それなりに存在するようです。こうしたなか、「住み開き」の運動を、徐々に目にするようになりました。高齢化・人口減少・経済縮小といった日本の中で、今後、人的資源に着目した人とのつながりが、これまで以上に重要視されるようになるのでしょう。住宅は、ご近所や友人、親族などとのつながりの舞台装置となるポテンシャルがあります。住宅のありかたが変わっていけば、いずれその集合体である街や地域も変わっていきます。

しかしながら、自宅の居室を他人に開放するには、かなりのハードルを感じている人が大多数です。他人と繋がってみたいものの、それほど知らない人に対してまで自宅を開放したくないと。そうした場合、自動車がなくなった私的空間(プライベート)であった車庫を、よりコモンに近いスペースとして開くことは可能かもしれません。もともと1階で公道に接道する所に位置し、外部に開放されていた車庫であれば、パブリックとプライベートを分けるセキュリティラインも明確です。車が存在しない車庫を、単なる空き空間としてとらえるのではなく、貴重な資源として再解釈して、新たな居場所を生み出すのです。

多少の陽当りがあれば、プランターを置くだけでも、自分もご近所も和やかな気分になるのではないでしょうか。もし散水栓があれば、1、2万円程度で自動散水装置を設置することも可能です。手入れをすることで、自ら積極的に住宅の外に出ることにつながります。

ベンチを置くだけでも印象は大きく変わります。気候が良ければ、夕涼みがてらいままで車庫であった「テラス」でくつろいでもよいでしょう。自分だけのカフェのテラス席に座り、道行く人とちょっとした「視線の交錯」があるだけでも、これまでと違う時間の過ごし方になるでしょう。

もうひとつの案として、定期的にヤードセールを行うのはどうでしょう。不用品を安価で売る、またはタダで譲っても良いかもしれません。不用な品々が必要な人のところで再活用され、資源が循環されるとともに、売買を通じたちょっとした交流が生まれます。”One man’s garbage is another man’s treasure”というわけです。

NYのブルックリンに住んでいたころは、週末にはこうしたヤードセールが至る所で行われていました。今でもそこで購入した花瓶を使っていますが良い思い出です。自分たちも部屋を引き払って帰国する時に、STOOP SALEとしてたくさんの不要品を通りがかりの近隣の人たちに買ってもらいました(日本人の売るものは当時状態がよいものが多いと歓迎されていた)。こうして座っていると、自然と道行く人々と会話がはずみます。

2004年6月22日 Brooklynの Carroll Gardensにて

立地が良ければ、自らヤードセールを行うのではなく、人に貸し出してより本格的に商売することも可能かもしれません。たとえそれほどの収入にならなかったとしても、空いていた車庫がスタートアップのための移動店舗として活用されれば、なんとなく楽しいかもしれませんね。

まとめ

今回のブログでは、まず年老いた両親や祖父母に運転から卒業してもらう方法について考えました。さらに、都市部において自家用車を保有しなくなる近未来についていろいろと考えてみました。まずはカーシェアの広がり、さらにはもう少し先の自動運転の実用化は、戸建て住宅のつくりを変えるのはもちろんのこと、さらには、コミュニティ/コミュニケーションの在り方を変えていくきっかけになるかもしれません。車庫空間は、敷地の外に対して開かれている貴重な資源なのです。