正月といえば初詣ということで、神社にちなんだ話題を一つ。前回のブログで「木造住宅の減価償却年数は本当に20年が適正なのか?」という内容を取り上げました。そういえば、学生の頃、日本建築史の授業で「伊勢神宮の式年遷宮は20年一度」と習ったことをふと思い出し、この「20年」にどのような根拠があるのか、気になって調べてみました。

 

いらすとやさんのイラスト

伊勢神宮とは

まずは、困った時の建築大辞典。

伊勢神宮:
伊勢市にあり、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)とから成る。各境内には正殿のほかに別宮、摂社、末社などから成る。正殿は唯一神明造りの典型で、内宮は天皇の始祖である天照大神(大和から移す)、外宮は豊受大神(丹波から移す)を祀る。天武天皇時代(673-85)に式年造替(しきねんぞうたい)の制が定められ、内宮では690年、外宮では692年を最初の造替とし、始めは19年に1度を原則とし、1320年代より20年に1度を原則として遷宮が行われ、造替の中断・延期、まれに短縮が行われた。なかでも戦国時代に内宮では123年間、外宮では129年間一時中絶したのが最大である。(建築大辞典,彰国社)

内宮で言うと、690年といえば飛鳥時代ですね。こんな昔から遷宮が受け継がれてきたことは驚きです。一方、123年間も遷宮が中断されていたことは知りませんでした。これだけ長い間中断した場合、建て替え前の正殿の状態や、建て替え後の状況はどうだったのでしょうか?気になります。次に伊勢神宮のウェブサイトを見てみましょう。

「お伊勢さん」「大神宮さん」と親しく呼ばれる伊勢神宮は、正式には「神宮」といいます。神宮には、皇室の御祖先の神と仰ぎ、私たち国民の大御祖神おおみおやがみとして崇敬を集める天照大御神あまてらすおおみかみをお祀りする内宮ないくう(皇大神宮こうたいじんぐう)と、衣食住を始め産業の守り神である豊受大御神とようけのおおみかみをお祀りする外宮げくう(豊受大神宮とようけだいじんぐう)を始め、14所の別宮べつぐう、43所の摂社せっしゃ、24所の末社まっしゃ、42所の所管社しょかんしゃがあります。これら125の宮社全てをふくめて神宮といいます。(伊勢神宮ウェブサイトより

いらすとやさんのイラスト

式年遷宮の「式年」とは定められ年を、「遷宮」とは宮を遷すことを意味します。式年遷宮は20年に一度、東と西に並ぶ宮地みやどころを改めて、古例のままにご社殿や御装束神宝おんしょうぞくしんぽうをはじめ全てを新しくして、大御神にお遷りいただくお祭りです。
この制度は約1300年前、天武てんむ天皇のご発意により始まり、持統じとう天皇4年(690)に第1回が行われ、平成25年には62回目の遷宮が行われました。
内宮外宮の正宮を始め14所の別宮や宇治橋なども造り替えられる式年遷宮は、「皇家第一の重事、神宮無双の大営」とも讃えられる日本で最大最高のお祭りです。(伊勢神宮ウェブサイトより

125も宮社があるなんてすごいですね。さらに遷宮のときには、14の別宮や宇治橋なども造りかえられるんですね。恥ずかしながら、内宮の正殿のみが遷宮の対象となると思っていました。。。とりあえず、内宮(ないくう)が、どのような場所に位置するのか、見てみましょう。

伊勢市観光協会ホームページより

なぜ式年遷宮をするのか

式年遷宮を1300年前から続けてきたのはよくわかりました。それでは、なぜ20年に一度式年遷宮をするのでしょうか。木造は腐りやすいし、茅葺屋根も吹き替えなければなりません。でもそれ以外に何か理由はあるのでしょうか。いくつか文献を調べてみました。

神社のうちには、大和の大神神社、信濃の諏訪神社、武蔵の金鑚神社のように、山や森を神体としてまつり、本殿のない神社があるし、原始信仰から考えても、最初は自然物崇拝で、社殿はなかったものとみられる。
これについで、豊作を祈るため、毎年祭を行うようになり、その時神の降臨を受け、臨時の社殿を作り、祭りがすめばとりこわす時代があったと思われる。このような風習は現在でも農村のうちに行われているところがあり、即位の年に行われる大嘗祭に、臨時の新田である大嘗宮がもうけられるのは、この習慣に基づいたものと考えられる。したがって、草葺の大嘗宮の正殿は、ごく古い時代の神殿形式を伝えるものであろうし、これと平面の似た住吉大社本殿は、大嘗宮正殿の系統のものかもしれない。
神社建築が、寺社建築と違って、新しいものを尊び、何年ごとかに建てかえる敷年造替の制があったのは、やはり、このような神社建築発生の事情によるものだろう。
(太田博太郎著,日本建築史序説,彰国社より)

「祭りの際、神の降臨を受けるためには新しい神社である必要があった」ということですね。「神社建築が、寺社建築と違って、新しいものを尊ぶ」という視点には、なるほどと思います。言われてみれば、神社には白木のイメージ、寺社はこげ茶の古木のイメージがありますね。

技術伝承の上から、宮大工や神宝製作の匠の技を伝えるにも、二十歳代で入門、四十で一人前、六十歳代で棟梁や指導者になる合理性である。現代でこそ平均寿命が八十歳にもなったが、ついこの間まで、人生わずか五十年、明示三十三年(1900)のそれは三十七歳であった。だから千三百年も昔はずっと低かったはずで、技術を正確に伝えるには精いっぱいの年限だったと思う。さらに私は、信仰を次の世代にバトンタッチするためにも最もふさわしい年限であると、最近つくづく実感する。二十年だから世代にを重ねて信仰、思想、文化が確実につたえられるのだ。 (矢野慶一,伊勢神宮,ぎょうせいより)

「技術伝承において、20年は最大の年限」と指摘しています。当時の寿命を考えると、20年でも長いくらいですね。昨今、施工に関する技術伝承が問題となってきていますが、実は1300年前からも同じ問題を抱えていたのかもしれません。

当時は建築的図面が保存されていたとは思えない。体系的に建築所が残されはじめるのは十七世紀以降であり、それとて、図面は今日に比較すれば至って簡略化されたものである。天正期の造替で、先行建物が完全に崩壊して、手がかりがないなかで、大工の棟梁と事務方の禰宜がそれぞれ伝えられた文章による記録をつき合わせて、古い型の復元をこころみている。そのいきさつが文書にのこっていたのである。(磯崎新,建築における「日本的なもの」,新潮社より)

ほとんどの設計・施工に関する情報は口伝によって受け継がれてきたわけで、また寸分たがわず正殿を作り続けてきたわけではないようですね。

まとめ

伊勢神宮はなぜ20年に一度遷宮するのかについて、即物的・建築的には、とりあえず以下の理由が考えられそうです。

腐朽した躯体や茅葺屋根を更新する
神社として新しい建物である必要がある
技術を伝承する

現代建てられている一般的な木造住宅は、現代の技術に基づく耐久性の高い屋根材や外装材によって建設することが可能です。さらに神社として新しい建物である必要性もありません。従って、現在適正に設計・施工された木造住宅は、あきらかに20年よりも耐久年数が長いはずです。(内宮の正殿と一般的な木造住宅を比較すること自体、ちょっと的外れかもしれませんが。。。)

蛇足となりますが、今後現存する正殿を3Dスキャンしたり、3次元モデル化したりすることによって、形状情報を保存していくことは可能になるでしょう。しかしながら、データとして記述することが難しい「施工技術」を、どのように保存していくのかにについては、重要かつ面白い課題だと思っています。

追記

このブログで扱ったのは伊勢神宮という極めて特殊な建築物ですが、「技術の伝承」という面から考えると古民家についても同じことが言えるでしょう。古民家は考えているよりも価値がある!維持管理・移築・解体の視点で分析してみた も併せてご覧ください。