大学時代
筑波大学附属小・中・高校卒業後一浪して東京大学入学。月曜の1限授業担当教官の「サークルや彼女・彼氏と忙しい生活であるはずなのに、こんな時間に学校に来るのはまともな人間ではありません。落第はさせないので今でしかできないことをやって下さい」という言葉を真に受けて、体育会ラクロス部、スキーサークルなど学生生活を楽しみました。
航空原動機学科(卒業時は航空宇宙工学科)へ進みましたが、すぐに「もうだめだ」とほかの道を模索しだしました。というのも、全て真面目に出席をしてコツコツ勉学に励む学科の風土や、まじめで内向的・優秀だが理系に偏った同級生たちに囲まれ、なんとなくなじめなく感じていたからです。もともと航空に進んだのは飛行機の形に魅せられたから、つまり「形をつくるデザインがしたいのだ」と自己分析し、可能性を探るために桑沢デザイン専門学校(夜間)へ通いだしました。形をつくる分野でもけっこうやれるかも?と色気が出て建築学科へ学士入学しました。
おしゃべりで外向的な年下の同級生に囲まれて、ボロボロの製図室で夜な夜な青臭い建築論をたたかわせるが、眠気に勝てずに床で寝るという充実した生活を送りました。東大で学部卒業後、ハーバード大学デザイン大学院建築学修士コース(MArch I : Master in Architecture I)という3年半の修士プログラムに入学しました。
Harvard University Graduate School of Design
学科生全員が一つの階段教室に集い、デスクをあてがわれてひたすら課題に励む環境です。中国系(中国・台湾・香港・シンガポール)のグループに入れてもらい、北京語が上達しました。課題は大変でしたが、東大時代同様寝ないと頭が回らないため、プレゼンテーションエリアの長いすで仮眠をとっていることが多く「マサはいつも寝ている」とクラスメイトに笑われる毎日でした。
アメリカの大学システムでは、学部ではリベラルアーツを4年間学び、大学院から各分野の専門的な教育を受けることがあり、建築・医学・法学・カウンセリングなど専門職を目指す人々が学びます。そのため、建築学科に限らない文系理系それぞれ幅広い専攻出身のクラスメイト達に出会いました。加えて、自分も含めた外国人留学生の多彩さも刺激でした。
自分は、図面や模型の作成が人よりも得意だとわかる一方で、英語でコミュニケーションする難しさを実感しました。図面や模型などの成果物が不十分なのにもかかわらず、雄弁なプレゼンだけで課題発表を切り抜けることができる同級生をうらやましくも思いました。また誰もがわかるようにプレゼンすることに気を付けるようになりました。
日本人でいること
周りに日本人や日本文化、日本建築(伝統的なものも、現代建築も)に対する感心・敬意があったので、自分の作品もそのような色眼鏡で(よくも、悪くも?)見られたように思います。アンドウ(安藤忠雄)やイトウ(伊東豊雄)、セジマ(妹島和世)、マキ(槇文彦)らの作品がよく知られており、そういう文脈で自分の建築が理解されていたように思います。
日本とは違うと感じた点
作るものや、その作り方、そこに至る思考やコンセプトなどの発想が違うと感じました。良いと思うもの、また良いと思うものに行きつく手法の違いなどが異なるのです。また、共同作業に対するコミットメントの温度差が、日本人だけで分担して行う場合と、個人主義の強い欧米系の人と分担して行う場合とで、時間の使い方や、最終成果物の質の点で、大きく異なることを知りました。
日本と同じだなと感じた点
完璧(perfection)を目指す姿勢は皆持っています。しかし、何をもって「完璧」とするのか、という定義が違うと感じました。ハーバードは、世界中からすごい人たちが集まると思っていたのですがが、結局のところ、出てきた作品のクオリティは東大建築学科(60人という少人数)の方が良いのではないかと思う時も多々あり、人数が多い分GSDではクオリティのばらつきが大きいと感じました。
ガントホール
ガントホールは建築だけでなく、関係学科(アーバンデザイン、ランドスケープ、アーバンプランニングなど)も含めた学生が作業をする階段教室があるGSDの建物です。そこでは色々な人たちと交流し、違う専門の人たちがどんな課題に取り組んでいるのか、また建築を超えた範囲についても学ぶ機会となり、自分の建築のコンセプトにも影響を与えました。すれ違うときに挨拶をする人が増えていって、社交が増えていったのもこの空間構成によるところが大きいと思います。
中国系友人のネットワーク
日本人が少なかったので、中国本土、台湾、香港、シンガポール出身のアジア人留学生同士よくつるんでいました。彼らの公用語は北京語だったので、それで自分の北京語も上達したのかもしれません。日本人以外は外国人という考えもありますが、アジア人同士は思ったより近いなと思いました。ただこうしたアジア人たちは自国・US・欧州、とそれぞれを広い目で見渡しながら世界を捉えていると感じました。
印象に残る授業・課題
ウッドショップやメタルショップ(試作工場)で、手を使って原寸大の手摺を作る課題がありました。鉄を溶接したり、木を削ったりすることで、図面と実際にできる「もの」が実体験としてつながったのです。これは大学時代では得られていない経験でした。
模型材料の多様性
日本では、模型材料といえばスチレンボードが主流ですが、アメリカでは紙や木、金属やプラスチックなど、模型材料になるものの種類の豊富なことと同時に、なるべく人と違うもので目立たせる、という意識もあったのでさまざまな素材による模型作りが行われていました。
自分で手を入れる文化
模型と同様に、とにかく材料を仕入れて自分で作る文化があるのです。だからこそ、そういう課題が出てくるともいえます。自分で手を入れて、住み続けるという暮らしの文化・価値観とつながっているのかもしれません。
サマーインターンシップ
台湾 台北近郊淡水のプロジェクト 図面補助と模型作成
東京(谷口事務所) MOMAプロジェクト 模型作成
ヘルシンキ KAMPPI再開発プロジェクト 図面補助
PCF (Pei Cobb Freed and Partners, LLP)
卒業後、ニューヨークへ移り、Pei Cobb Freed and Partners, LLP.で働き始めました。6時7時には仕事が終わる中、仲間たちと食べ歩き、飲み会やパーティに行ってはソーシャルバタフライとしてマンハッタン独身生活を謳歌しつつ、ひたすら上司の指示に基づく設計作業をしながら、早く自分のデザインがしたいという思いを温め続けることとなります。Pei Cobb Freed and Partners, LLP. の前身である、IMPei and Associatesは、IMPeiによって1955年に設立されました。後にHenry CobbとJames Freedをパートナーとして迎え、1989年にPei Cobb Freed and Partners, LLP. に改名されました。
PeiもCobbもGSD出身で、Cobbは建築学科長も務めたことから、事務所には毎年GSDの卒業生の中から「向いている」生徒が送り込まれることになっており、私もその一人でした。
IMPeiという建築家
素材のもつ特性を生かして幾何学的でモニュメンタル(象徴的)な公共建築をつくる建築家です。国家的プロジェクトを質の高い建築で表現することにかけては名高く、日本ではそうでもありませんが、海外とくに米国と中国では「巨匠」として幅広く知られています。パリのルーブル美術館のガラスのピラミッドや、ワシントンDCのナショナルギャラリー東館は、事務所の代表作です。石を積むことや、ガラスを用いて幾何学的で恒久的な空間を表現する作風で知られています。
彼が設立した事務所では、これらの国家的プロジェクトで培われた素材やディテールのリソースが潤沢に詰まっていました。たとえば、プロジェクトで使われた素材などのライブラリーがあり、そこへ行けば実際に使用されたものを見ることが出来ました。また、プロジェクトに携わったベテランの所員たちが身近にいたので、そのことについて尋ねたりもできました。
PCF時代の自分の仕事について
自分が携わったのはニューヨークにあるベルビュー病院の外来棟です。運よくプロジェクトのプロポーザルから竣工に至るまで担当することができましたが、エントリーレベルの所員では非常に珍しいことでした。メンバーには、ナショナルギャラリーの担当者、香港の中国銀行本店の担当者、そしてルーブル美術館プロジェクトの担当者もおり、彼らからのよもやま話をよく聞いていました。
また、MIHO MUSEUM(滋賀県)に携わったことから渡米してペイの右腕となっていた日本人の先輩がルクセンブルグの近代美術館を担当しており、彼からも日本とヨーロッパの建築の違いについて学びました。この経験が、後のMIHO美学院中等教育学校プロジェクトにつながります。
事務所には中国系の所員も多く、GSDから繋がっていたネットワークがさらにPCFでも深まりました。それぞれが母国に帰った後も、息の長い交流が続いています。
911同時テロ発生
勤め先がすぐ近くだったため、つい好奇心に駆られてWTCの真下までノコノコ見物に出かけた直後にツインタワーが倒壊してしまい、死ぬほど怖い思いをしました。もちろん勤務していた建築事務所の中でそんなことをしたバカは2人だけで(自分がいちばん近くにいた、と今でも密かにそこだけは自慢)命からがらブルックリンの自宅に徒歩で帰宅しました。強いショックを受けたからか、それから一週間ひたすら眠り続けることになります。これ以来、災害現場には近づかない方がよいと心にちかいました。 (911同時テロの体験談についてはこちら)
米国と日本の設計手法の違い
米国では発注に使われる図面(CD: Construction Document)が非常に詳細であり、アーキテクト(建築家)がそれらの細かいディテールを詰めて、描き込むことが普通です。帰国して非常に驚いたことは、日本ではそこまで描かないということ。 これは施工者と一緒に作るという業界の文化的背景が前提となっています。金銭的・施工的な最適化を実現するために、あえて図面には余白を残しているともいえるかもしれません。
米国では、発注や訴訟のリスクがあるため、不完全な状態で図面を施工者に渡すことができないのです。このような社会的背景が、専門職の建築家として完全に独立することを後押ししていたのかもしれません。また、米国では細部に至るまでコンサルタントがおり、分業が徹底しています。アーキテクトは全権をもってプロジェクトのコントロールを行いますが、日本ではそうではないなど、これらの日米での建築環境や建築設計文化の違いを体感したことが、帰国後の外国人クライアントとの折衝やプロジェクトの運営に寄与していると感じると同時に、学術的な知見としても深めていく基盤となりました。
米国での留学・勤務経験を経て、2004年にNewYork州登録建築家ラインセンスを取得後、日本に帰国し、小笠原正豊建築設計事務所を設立することになります。